①教育という”負債”が個々人に負わせられる仕組み
教育は直接的な生産につながらない投資。
雇用が流動化した状態では、教育済みの人員(”即戦力”)を雇用する方が高効率。
他社に教育させた人員をヘッドハントするとさらに高効率。
結果、企業にとって教育はハイリスクな投資になるので、全体として教育不足になる。
労働者(候補)に自費+私的な時間を使った”自己投資”を求めるのが最高効率(大学の就職予備校化もその一例)。
ここまでがこの30年ほどの流れだったのではないか。個人が企業から切り離されることで、教育は企業にとっての負債となり、その負債が個々の労働者に転嫁された。
(ここでいう「企業」は仕組みとしてのそれであって、その中のすべての個人が負債を転嫁される対象であることに注意する必要がある。”企業内の誰かが不当にいい目を見ている”のではなく、”大多数が不幸になる状態になっている”という話)
②タイミー地獄
”自己投資”の元手がない人間は、最低限の教育しか必要としない職に就くしかない。
業務外での教育を必要としない職でも、その業務に特殊な部分=教育となる範囲は大いにあるので、現場経験を積む中で熟練労働者になれる。
雇用がさらに流動化し日雇い以下の時間雇いが登場すると、業務特殊な部分への最低限の教育すら”負債”になるようになる(”タイミーさん”の扱いを見よ)。
結果、特殊性の全くない業務しか行わない職が生まれる。
特殊性の全くない業務には”熟練”できない。
脱出不能の貧民生産装置が完成する。
③”自己投資”
労働のために”自己投資”をするかどうかは自己責任に帰される。”資本”=時間+費用を労働以外に投入する自由は否定されない。
これ自体は個々人の現状における最適解の選択の問題として考えると何も問題はない。自由があって結構。
しかし、合成の誤謬が生じるように思える。大多数が”自己投資”を選択することによって、それ以外の選択をとることの不都合が極端に大きくなる。結果として実質的に”資本”の投入先の自由が失われる。
そもそも”資本”があるかどうかが実際的に問われない点も問題ではある。理想論だが、不可能なことが自己責任であってはならない。
④もう少し前提にある違和感
・金を稼げると偉い
・偉いと金を稼げる
・偉ければ偉いほど稼げる
・稼げれば稼げるほど偉い
このあたりのことが一般的な通念として正しいことになっているような気がしてならない。金銭と威光が半ばイコールになっているのだろうか。しかしこれは「逆は真ならず」のような単純な論理的誤謬を多数含んでいるように感じるので、正しいようには思われない。
・自分と周囲の人々を幸せにできると偉い
・自分と周囲の人々を幸せにできても金になるとは限らない
・金だけがあっても自分と周囲の人々を幸せにはできない
・金が全くないと自分と周囲の人々を幸せにはできない
このあたりが個人的には直感的に正しいように思えるし、ほとんどの人が同意するだろうが、↑とは必ずしも両立しない。ということは、これらの命題(?)群はそれぞれ、日常生活では互いに重ならないナラティヴ同士の構成要素になっているのだろう。
⑤集合的な責任の連鎖
経営者すら容易に挿げ替えられる首でしかないのであれば、企業の不正等の不祥事に関して経営者だけでなく投資者まで責任を遡及しないのはなぜか?投資者は不正による利益を享受した者であり、経営への介入の権利を持ち、挿げ替え可能な首でもない。容易に挿げ替え可能な首でないからこそ、不正への抑止力が生まれる。
集団から適当な質を出せば済むのであれば中世の解死人と変わらない。メンツを保つための儀式でしかない。結局のところ、こういった集合的な責任の問題は構造的問題の解決ではなく、集団間のメンツの調整としてしか概念化されないのかもしれない。