”クラウドファンディングはあくまでも「支援」なのでリターンを期待してはいけない”

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”クラウドファンディングはあくまでも「支援」なのでリターンを期待してはいけない”といった言説がこういった話題でよく見られるけど、これは少なくとも三重に間違いだから注意しなくてはいけない。


①「ファンディング」はそのまま「投資」の意であるので、そもそも名称として「クラウド型投資」である。これが第一義的に「支援」であるというのは語義上の誤りである。

②クラファンにも商品購入型や利益分配型などさまざまな種類があり、明示的に「支援」をうたうもの以外はクラファンの仕組み上ですら「支援」ではない。

③もともと”支援だから”という言説は、”人に金を貸すときはあげると思って貸せ”と同じく相手側に不法行為を働かれることを前提として意思決定することを推奨する言説であり、”騙されることを覚悟し、もし騙されたらあきらめろ”を優しく言い換えただけである。この言説を不法行為を働く側の擁護や働かれた側への批判として用いる事は、犯罪を推奨し被害者を糾弾する行為でしかなく、倫理的に破綻している。

村田版ワンパンマンがなぜ嫌いかという話

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優れた娯楽作品って、表面的な面白さだけじゃなくて、根底に魅力的な思想・テーマ性があるんだよね。後者があるかどうかが傑作と凡作を分ける。
ワンパンマンだと、ギャグや爽快なアクション、魅力的なキャラ造形やわかりやすいプロットで表面的な面白さを出しつつも、キャラクターの行動を通して常に”善”や”能力”、”アイデンティティ”といった普遍的な問題についてのONEなりの答えを提示し続けている。だから深く読み込むだけの魅力があるし、さらっと読むだけでも何かしら感じるものがある。
村田版がアンチに叩かれるのは、表面的な要素だけを拾って、ありきたりで薄っぺらな少年漫画の文法に乗せて出力してしまっているせいで、原作の魅力を支えていた「ONEなりの答え」に関する重要な描写が削られたり矛盾する描写が足されたりしてるからなのよね。画力でガワは整えられても、中身がチープな量産品になってしまっているから、原作の持つオンリーワンの魅力には絶対に到達できず、どんなにうまくいっても「良くできた凡作」以上になることはできない。
「良くできた凡作」を一個の作品として面白いと評価するのは何も間違っていないと思うし、村田版を読んで面白かったと思うこと自体を否定はしないけど、原作アリ作品で「傑作」を「凡作」にしてしまえば大失敗と評価されるのが妥当だし、その点について村田版は擁護の余地がないよね。

陰謀論は弱った心によく沁みる

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実際、「便槽内に入るのは不可能ではないが難しい」程度の場合が一番「覗き」の可能性が高くなるのよね。
頑張れば入れる+他人が押し込むのは無理=自分で入った、ってことになるから。
自分で入ったとすると動機は「脅されて」か「覗き」くらいしかないけど、脅しの場合は脅す方の目的が謎。どんな目的があろうと、結果がどうなるかが不確定すぎて「脅して便槽に入らせて放置する」を手段として選択する理由がなさすぎる。被害者は大声で助けを呼ぶかもしれないし、自力で脱出するかもしれない。便槽内にダイイングメッセージを残すかもしれないし、生きているうちに発見されて救出されるかもしれない。
さらに言うと、おとなしく便槽内でタヒぬ結果になるのは当人が自分の意思でおとなしくしていた場合だけで、自分で便槽に入っておとなしくしている理由なんか「覗きがバレたくない」くらいしかない。

百歩譲って、何らかの方法でうまくタヒ体を押し込むことができたと仮定しても、犯人の思考過程が全くもって不自然になる。
発見時の状況やらタヒ因やらを考慮に入れると、犯人は「被害者を狭い空間内に上半身裸で衣服を抱かせて閉じ込めて窒息タヒさせてから便槽まで運んで押し込む」ないし「狭い空間内に閉じ込めて窒息タヒさせてからタヒ後硬直する前に上半身裸にして衣服を抱かせる姿勢にしたうえで便槽まで運んで押し込む」とかいう無駄に込み入った頃し方を、被害者に一切抵抗させることなく、かつ証拠を残すことなく達成したことになる。「覗き目的で入ったが脱出できずに窒息」に偽装する目的以外でそんな手間のかかる頃し方をする理由はないから、犯人は何が何でもタヒの理由を偽装したかったはず。
ところが、陰謀論者たちが覗き説を否定する理由の一つに「上半身裸で衣服を抱いた状態なのは不自然」があることからわかるように、手間暇かけてこの頃し方をしたところで偽装の説得力が上がるわけじゃないし、なんなら下がる可能性すらある。そんなことをするなら服は着せたままにするか、脱がせた服を汲み取り口の近くに隠しておいた方が偽装としては簡単だし説得力も高い。

要するに、わかっている情報の範囲内でこの事件に犯人がいたとすると、どうなるか全く予想もつかない方法で犯行に挑む信じられないほど無能な人物か、必要もなく犯行過程を複雑にして失敗の可能性を高める無能さと、その複雑な犯行を完璧にこなす有能さを併せ持った極めて珍しい人物のいずれかということになる。そのどちらでもないとしたら、発見時の状況やタヒ因などの情報を操作隠匿できる手段を持つ集団による陰謀しかありえない。

そもそも陰謀論者どもの論理は、「図によると便槽に入るのは不可能」なので「覗き」ではありえない⇒発見時の状況やタヒ因についての警察の公式見解に決定的な嘘がある⇒何らかの陰謀があるに違いない、という流れだったわけで、不可能という前提が崩れてしまえば警察の公式見解を疑う積極的な理由は無くなるし、陰謀があると考える根拠もなくなる。合理的に考えればこの時点で議論は決着してる。「新たに「覗き」を否定する決定的な証拠が出てこない限り、「覗き」以外の可能性はほぼない。」本来はそれで終わり。今行われているのはもう議論ではなくて、「もし陰謀があるとしたらこういう可能性がありえる」という、結論から逆算しているだけの妄想語りでしかない。
結局のところ、この議論の本質って、「何らかの陰謀がある」という一度抱いた信念を手放すことができない精神的に不安定な奴らが合理的な思考をかなぐり捨てて、村内の確執がどうだ警察の腐敗がこうだと「自分が正しいままでいられる理由」をでっちあげて自分のエゴを守っているだけなのよね。カルト信者やらMAGAやらと同じ。

差別的な思考はレトリックで覆い隠しても臭う

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この炎上した放送作家のnoteの内容って、レトリックを排してロジックだけを追うと、要するに「テレビ業界にいる優秀な私たちが劣等な他業界の有象無象に劣るわけがない」とナチュラルに信じているせいで「転職で評価されない」という現実を理解することができないので、「自分たちの優れているところ」を10個も書き連ねて「理解できない他業界の奴らが無能」とわめき散らすことで矮小な自尊心を慰めているように見える。

「自分たちの優れているところ」のまとめとして”総合的な力”とか”人間力”とか抽象的な能力が結論になるのは、「テレビ業界人>その他」という幼稚で差別的な選民思想を正当化するためには観測不能で検証不可能な根拠が必要だからでしょうね。論理的に追いつめられると、”精神性”とか”民族性”とか”神の意図”とかいった具体的な中身を何とでもできる都合の良い抽象概念に縋りだすのは差別主義者あるある。

 

ただ、「テレビ業界人>その他」という職業差別は直接には文章化されずに暗黙の前提化されていて、ロジックの中で表に出ていない点はかなり面白い。むしろ、自分たちが弱い立場にいるかのような表現を使いつつ、「テレビ業界人は頑張っている」と鼓舞するようなレトリックを採用することで、差別意識が読み手から隠されるように構成されている。これは推測だけど、おそらくこの放送作家は自らのレトリックに騙されて、自分が差別意識を持っていることに気が付いていないんじゃないだろうか。自覚があるにしては言動が無神経すぎるしね。

今回これが大きく燃えた理由の一つは、この隠し方が下手すぎて文章の端々から差別意識がにじみ出しているために、読み手を極めて不快な気分にしたからだろうと思う。もしこれが差別意識全開の文章ならここまで燃えなかったとすら思う。

 

差別意識はさておき、テレビ業界人の転職という記事の内容自体について言うと、「業界によって必要なスキルは変わるので、共通するスキルのない業界に移るのは簡単ではない」「業界によらない基礎的なスキルはどの業界にいても鍛えられる」という当たり前の前提で考えれば、特殊化しているテレビ業界のスキルセットでは外に移るのが難しく、基礎的なスキルについてはよほど飛びぬけていない限りは評価の対象にならない、ということになるかな?実態は知らんけど、常識的な推論としてはこの辺でしょ。

いろいろ考えてることのメモ

メモ1:まだ法規制されていないだけの犯罪行為

AIアニメ早くも無法地帯と化す(youtube short)

https://www.youtube.com/shorts/sR4iJJ2_n18

暗号資産系の「〇〇コイン」と同じで、まだ法規制されてないだけの犯罪行為が一番儲かるからしょうがないよね。

倫理面を考慮に入れなければ、法規制が入る前に稼いで捕まる前に引退するか、しこたま稼いで政治献金やロビー活動で後ろ盾を作るかのいずれかが最適解。健全な社会において必ずしもそうならないのは、そういうことをする人間にはいろいろな形で社会的なサンクションが加えられるので、長期的に見て割に合わない(と多くの人が考える)から。つまり、倫理が欠落していて利益だけで動く人間であっても、周囲の倫理観のある人間から爪弾きにされるようなことをするのは利益にならないと理解すれば、当然倫理的な行動をする。結果として大多数が倫理的な行動をし、長期的な損得勘定ができない”無能な”人間と、サンクションをうまく回避しつつ非倫理的に動ける”有能な”人間による”健全な”社会が成り立つ。

でも、マスクやトランプを見ればわかるように、現在の社会状況では(特にアメリカにおいては)倫理面でのサンクションが働かなくなっていて、非倫理的な行動が本当に最適解になってきている。

もともと↑みたいな構造の社会システムには、倫理や共感性が欠落した”有能な”人間が成功して金や権力を握り、その力を維持できるように社会を作り変えていくプロセスが存在するので、長期的に見るとだんだんと腐敗(力を持つ側からすると”効率化”)していくわけだけど、今の社会は主に新自由主義によって社会がより”競争的”に作り変えられることでこのプロセスが超加速してるように見える。「共感性」を悪とする言説が流行する状況がすべてを物語っている。

(エプスタイン文書が大問題になっている原因もこれに関連していて、あれは内容それ自体よりも、社会がすでに非倫理的で共感性を欠いた行動が最適解である状態にまで堕ちていたことが誰の目にも明らかになってしまったうえに、明らかになった後にも実質的なサンクションが起きていないことによって改善の望みまで絶ってしまったことの影響が大きい。)

話を戻すと、「新技術に法規制が入るまでに実質的に真っ黒なグレーゾーンで大きく稼ぐ」方法って、遡及法が禁止された資本主義の社会では構造的に不可避の問題になるから、もし社会を良くしたいなら、この”バグ”を広く周知して倫理面でのブレーキを社会内部に実装するしかない。でも「金儲けの追求」が正当化される資本主義社会においては、大きな稼ぎのタネになる”バグ”を使用不能にする動機が倫理面を除いて存在しないし、その倫理面はすでに社会の長期的な腐敗によって骨抜きになっており、むしろ「金儲けのチャンスをつぶすこと」として”非倫理的”であるかのように認識されうるところまで来ているように見える。

倫理的でないことにインセンティブが働く社会って常識的に考えて結構終わってるけれども、これは社会システムの最終局面みたいなもんだから、そう遠くないうちに一度崩壊して新たな倫理体系を備えた社会構造が出来上がるだろうね。崩壊がアメリカ内戦なのか第三次世界大戦なのかはわからないし、出来るのがその後に来るのが今より良い社会かどうかもわからないけど。

 

メモ2:「共感性」は概念化の単位を間違っている

「共感する」という現象は、自他境界を変動させることで、認識や行動の単位が複数主体化することとして捉えるのが良いように思う。この過程は双方向的な過程であるので、それぞれの観測点からの「共感」には不可避にズレが生じるが、このズレは次の「共感」状態へのフィードバックとして機能すると考えることができる。

問題は、「共感」の方法と範囲の規範化である。「共感」が独り善がりに終わるのは、ズレがフィードバックとして働かない状態になったときであり、それは権力と群れ志向によって「共感」が義務化することによって、認識や行動の実質的な目的がすり替わった時である。この時、「共感」は共有されたローカルで実践的な価値に向けた相互調整の過程から、群れ内部の地位と役割の維持と結びついた一方的な自己呈示の手続きに堕す。

巷でいわれている「共感性」は、「共感する」過程から相互的で実践的な側面を捨象し、個人の主観的な思い成しを他者から見て妥当なラインに適合させるスキルのみを取り出したものである。群れ内部での妥当性を見極めることができれば、地位と役割の維持のためのパフォーマンスとしての「共感」の効率は高まる。

このような概念化を加速させているのが、メディアによるバイアスである。文字や映像による”物語”は、目の前の具体的他者に対する具体的な働きかけを通した相互的な協調の過程としての側面を不可視化し、関わりのない他者を一方的に見て勝手に思い成す主観的な過程としての側面のみを前景化させる。このバイアスは社会のありとあらゆるところに存在する。科学的な研究もこの影響から自由ではないし、むしろ誤った概念化の根拠を提供してしまっている。

 

メモ3:AIタイトルアシストは役に立たない

生成AIの仕組み上、仕方ないんだろうけど、記事内のワードに関連するよく使われているワードをタイトルのテンプレートに穴埋めしてるだけになってる。結果として無限につまらないタイトルしか出力してこない。何のための記事で、タイトルにどういう機能を持たせるか、という目的の部分に合わせた調整ができないなら、使える機能にはならない。

後でちゃんと考えるメモ:”ポリコレ”的な活動が下手くそすぎるように見える理由

いわゆる”ポリコレ”的な活動が大きな反発を招いている理由は大まかに以下の三つだと思う。

1.権利回復ではなく利権獲得に見える/になってしまう

2.全員が周辺化されることによる不安の増大

3.少数派が多数派を周辺化することを目的化してしまう

 

1.権利回復ではなく利権獲得に見える/になってしまう

 前提として、ここで”ポリコレ”的と言っているものが何かと言うと、少数者や社会的弱者などの周辺化された人々が社会文化歴史的に被ってきた、資源の配分におけるシステマチックな不公平とそれに伴う種々の不都合を軽減・撤廃することを目指す運動を指している。

 特に倫理的な正しさという規範性を超えて、”政治的な正しさ(ポリティカルコレクトネス)”として権力化しているものを指すべきだとは思うが、この点に関してはあまり整理できていないので以下では一貫していないかもしれない。

 話を戻そう。一つ目の理由が意味するところは、すでにシステム化された不公平が認識の参照点となってしまっているために、完全に公平な資源の再配分ができたとしても、多数派にとっては自らが権利を制限され、少数派が利権として獲得したようにしか見えないということだ。コップ半分の水を見たとき、コップ満杯の水を参照点とすると「半分しかない」ように見え、空のコップを参照点とすると「半分もある」ように見えるのと同様だ。

 最悪の状態を想定しよう。多数派も少数派も全員がコップ満杯の利権(現状の多数派の持つ利権)を人が持つべき利権のデフォルトと思って見ているとする。この状態で完全に公平な資源の再配分が行われると、全員のコップが7分目くらいまで満たされた状態になるだろう。不都合なことに、この状態は多数派にとっても少数派にとっても不満にしかならない。多数派から見れば利権が減少し、少数派から見れば”在りし日の多数派が持っていた十分な権利”を得られていない。つまり、完全に公平な資源配分は、認識の上では誰から見ても不公平な状態になるのである。

 少数派の権利保護が政治的な正しさとなっているポリコレ的な状態においては、この偽の不公平状態は少数派によるさらなる利権の追求を正当化しうる。逆に、多数派によるポリコレ状態への反発を通じて、元の不公平な状態への回帰も生み出しうる。結果として、完全に公平な資源の再配分という現実的には不可能な軌跡が生じた場合においても、不公平な資源配分が生み出される。

 

2.全員が周辺化されることによる不安の増大

 1.は実質的な損得の認識の問題であったが、2.は心理的なコストの問題である。周辺化された少数者であることは、常に”普通ではない人々”として扱われることになるために精神的な負荷が高い状態になりがちになる。この”普通ではない人々”としての扱いには実際にある差異を反映するものだけでなく、その差異と結びついた、あるいはまったく無根拠な偏見を反映するものもある。”ポリコレ”的な活動にはそういった差異を公然化することで多数者にとって見慣れた存在にしたり、偏見を訂正したりすることで”普通の人々”に変えていくものも含まれる(というか一般市民として最も目にするのはこの部分だろう)。

 そのような活動に対する反発には、見慣れるまでの居心地の悪さや、偏見を解消することの難しさといった、もともとの目的に応じたものもあるが、それとは別のレベルで根本的に解決が困難な反発があるように思う。それは周辺を非周辺化することで、中心が識別不能になるということである。簡単に言うと、「じゃあ何が普通なんだよ」ということだ。

 何かを中心として参照点にすることで、そこからの差異によってものの見え方が秩序付けられる。その参照点が人々に共有されていることで、何が”普通”で何が”異常”かを自信をもって認識できるようになる。”ポリコレ”的な活動がこの参照点を変更する試みである以上、その過程で何が”普通”で何が”異常”かの認識は一旦は崩壊せざるを得ない。多数派にとっては、これまで自分を”普通”と認識するのに使用していた枠組みが崩壊し、自分が”異常”である可能性に常に怯えなければならない状況に置かれるのだ。さらに言えば、少数派にとっても”多数派にとっての異常”として受け入れていた自己認識を崩壊させることになりかねない。

 つまり、多数派と少数派の双方が、中心が不明ですべてが周辺でありうる認識的混沌を生きることを強要されることになる。これに対する対処は、これまでとは別の新たな中心を立てることしかありえないが、現状でそれが達成されているようには思えない。むしろ、中心のない不安に駆られて権威主義ポピュリズムといったわかりやすい中心に縋る人々を量産しているように見える。

 

3.少数派が多数派を周辺化することを目的化してしまう

 これは1.と2.からほとんど必然的に生じる帰結と思うが、つまり、少数派が「正しさ」を武器に多数派に対する権力闘争に堕するということだ。いわゆる”道徳的棍棒”による抑圧であり、新たなる不公平の創出である。

考えることリスト

①教育という”負債”が個々人に負わせられる仕組み

教育は直接的な生産につながらない投資。

雇用が流動化した状態では、教育済みの人員(”即戦力”)を雇用する方が高効率。

他社に教育させた人員をヘッドハントするとさらに高効率。

結果、企業にとって教育はハイリスクな投資になるので、全体として教育不足になる。

 

労働者(候補)に自費+私的な時間を使った”自己投資”を求めるのが最高効率(大学の就職予備校化もその一例)。

ここまでがこの30年ほどの流れだったのではないか。個人が企業から切り離されることで、教育は企業にとっての負債となり、その負債が個々の労働者に転嫁された。

(ここでいう「企業」は仕組みとしてのそれであって、その中のすべての個人が負債を転嫁される対象であることに注意する必要がある。”企業内の誰かが不当にいい目を見ている”のではなく、”大多数が不幸になる状態になっている”という話)

 

②タイミー地獄

”自己投資”の元手がない人間は、最低限の教育しか必要としない職に就くしかない。

業務外での教育を必要としない職でも、その業務に特殊な部分=教育となる範囲は大いにあるので、現場経験を積む中で熟練労働者になれる。

 

雇用がさらに流動化し日雇い以下の時間雇いが登場すると、業務特殊な部分への最低限の教育すら”負債”になるようになる(”タイミーさん”の扱いを見よ)。

結果、特殊性の全くない業務しか行わない職が生まれる。

特殊性の全くない業務には”熟練”できない。

脱出不能の貧民生産装置が完成する。

 

③”自己投資”

労働のために”自己投資”をするかどうかは自己責任に帰される。”資本”=時間+費用を労働以外に投入する自由は否定されない。

これ自体は個々人の現状における最適解の選択の問題として考えると何も問題はない。自由があって結構。

しかし、合成の誤謬が生じるように思える。大多数が”自己投資”を選択することによって、それ以外の選択をとることの不都合が極端に大きくなる。結果として実質的に”資本”の投入先の自由が失われる。

そもそも”資本”があるかどうかが実際的に問われない点も問題ではある。理想論だが、不可能なことが自己責任であってはならない。

 

④もう少し前提にある違和感

・金を稼げると偉い

・偉いと金を稼げる

・偉ければ偉いほど稼げる

・稼げれば稼げるほど偉い

このあたりのことが一般的な通念として正しいことになっているような気がしてならない。金銭と威光が半ばイコールになっているのだろうか。しかしこれは「逆は真ならず」のような単純な論理的誤謬を多数含んでいるように感じるので、正しいようには思われない。

・自分と周囲の人々を幸せにできると偉い

・自分と周囲の人々を幸せにできても金になるとは限らない

・金だけがあっても自分と周囲の人々を幸せにはできない

・金が全くないと自分と周囲の人々を幸せにはできない

このあたりが個人的には直感的に正しいように思えるし、ほとんどの人が同意するだろうが、↑とは必ずしも両立しない。ということは、これらの命題(?)群はそれぞれ、日常生活では互いに重ならないナラティヴ同士の構成要素になっているのだろう。

 

⑤集合的な責任の連鎖

経営者すら容易に挿げ替えられる首でしかないのであれば、企業の不正等の不祥事に関して経営者だけでなく投資者まで責任を遡及しないのはなぜか?投資者は不正による利益を享受した者であり、経営への介入の権利を持ち、挿げ替え可能な首でもない。容易に挿げ替え可能な首でないからこそ、不正への抑止力が生まれる。

集団から適当な質を出せば済むのであれば中世の解死人と変わらない。メンツを保つための儀式でしかない。結局のところ、こういった集合的な責任の問題は構造的問題の解決ではなく、集団間のメンツの調整としてしか概念化されないのかもしれない。