やっぱり『ハートロッカー』はダメだよ

 いまさらだけれども、『ハートロッカー』のなにが酷かったか書いておこうと思う。

 

 この映画の一番の問題は、戦争の悲惨さを描こうとしているのに、現実を排除してファンタジーを描いてしまっていることだろう。どういうことか説明するために、前半のストーリーラインの問題点を例に挙げてみよう。

 この映画は大まかに前後半に分けることができる。前半は主人公と仲間たちが葛藤を乗り越えてチームとしてまとまっていくという希望ある展開となっており、後半の戦争の悲惨さによって精神的に追い詰められ、チームも散り散りになっていくという悪夢のような展開との対比を効果的に使っている。また、全体として円環構造のストーリーとなっており、主人公が戦地に派遣されるところから始まり、任期が明けて家に帰るものの平和な故郷になじめず、取りつかれたように戦地に戻るところで終わる。このストーリーの構造自体はよく考えられていると思う。

 しかしながら、よくできているのは構造だけであり、内容がすべてをぶち壊している。前半のストーリーラインは、戦争映画というよりは、出来の悪い青春部活映画と表現する方がいいだろう。

 

 物語は、イラクに展開している米軍の爆発物処理班に、変わり者の”エース”が”転入”してくるところから始まる。このエースは過去に尊敬する先輩を失っているためにひねくれており、能力はあるが協調性がない。自分勝手な行動で元からいた”部員”を翻弄し無駄な軋轢を生むが、素晴らしい腕前と判断力で爆弾解体を成功させ自分の正しさと周囲の無能さを証明して見せる。とってつけたように現れたお偉いさんに激賞されたりもする。

 部員とエースとの軋轢は高まり、ついには事故に見せかけて排除されるか?というところまで至るが、任務中に武装勢力との狙撃対決になりチーム一丸となることで勝利。お互いを認め合いチームは結束する(練習試合的展開)。そのあと宿舎のベッドでのんきにおしゃべりをしてさらに仲を深める(合宿の夜的展開)。

 

 このストーリーラインの問題は二つある。一つ目は部活もの的なテンプレートと映画全体のストーリーとのかみ合わせの悪さであり、二つ目はストーリーを回すために軍隊の組織としての側面が削り落とされている点だ。

 一つ目から見ていこう。まず重要なこととして、この映画のストーリーの中で主人公の”短所”が克服されることはない。有能だが協調性がなく無駄な軋轢を生むという主人公の短所は、部活ものでは王道だろう。通常の部活ものならば、主人公が短所を克服し、互いに葛藤を乗り越えながらチームとして成長する流れを描くことになる。その葛藤の過程がキャラクターへの感情移入を促し、好感を抱きやすくする仕掛けとなっているわけだ。

 しかしながらこの映画の主人公は戦争に精神的に依存しており、平和な生活に戻れなくなってしまっている。協調性がなく無駄な軋轢を生むという主人公の短所は、そういう悲惨さの中で作り上げられたトラウマからきているものであるため、ストーリーの円環構造を崩さないためには、この短所を克服することはできない。

 短所をそのままにしなければいけないとしたら、どのようにチーム内の葛藤を乗り越え、結束を固めることができるだろうか。この映画が選んだ答えは、チームメイトを主人公に心酔させることだ。上述の練習試合展開と合宿の夜展開を経て、さっきまで「こいつ殺してやろうか」くらいの勢いで嫌っていたチームメイトがコロッと墜ちる。スナイパーとスポッターとして協力している場面はあるものの、基本的に主人公が自分勝手なまま俺TUEEEEEE!してるうちに仲間が勝手に嫌って勝手に墜ちるので、最初から主人公のキャラ造形に好意を持てた人以外は「なんで好かれてるんだこいつ…(ドン引き)」状態になるんじゃないだろうか。あと関係ないけど、合宿の夜展開の会話のノリが妙に女子会っぽくてゲイ展開が来るのかと本気で思った。

 話を戻すと、この映画の主人公はストーリーの構造のレベルでは戦争の悲惨さを体現する悲劇的存在として構想されながらも、描写のレベルでは単なる俺TUEEEEEE!系ヒーローになってしまっている。このご都合主義的な現実感のなさが第一の問題点だ(ちなみにストーリー後半で悲惨な目に合うのも、主人公の自分勝手がうまく回らなくなるだけなのでご都合主義的展開は変わらない)。

 もう一つの問題は、この映画全体を通して続くのだが、部活ものでいうチームを指導する”監督”の役割を持つキャラクターがいない。具体的には、軍隊なのに上官が出てこない。映画内で明確に描写される指揮系統は基本的に「チームリーダー→その他隊員」だけだ。そこから上が描写されることはない。これがどういうことかというと、チームが軍隊という組織の中でどのように動いているのかがはっきり示されることがないということだ。

 そのため、この映画において場面転換は極めてあいまいに行われる。ストーリーの都合で、あるいは”戦争の悲惨さ詰め合わせ”を披露するために、主人公たちは様々な状況に節操なく放り込まれる。そこに軍隊的な秩序と規律はない。過酷な状況の中で失われるのではなく、そもそも存在していない。他組織とゆるく連帯しているレジスタンスの小集団のような自由さで、主人公たちは好き勝手に行動する。ストーリー描写上の必要のために、主人公たちを取り巻く世界から現実性が剥ぎ取られてしまっている。

 こういった描写不足については、主人公の目から見た局所的な出来事を描くことで現実感を云々とかいう評論も見かけたが、これはそんなロジックで正当化できるようなものではない。軍隊の現実は組織の中にあるのに、それを描かずに現実感も何もないだろう。

 

 以前、『ローンサバイバー』の感想を書いたときに、ハートロッカーは意識高い系戦争映画だと評価した。それは、”戦争の悲惨さ”を描くために、”トラウマを抱えてひねくれて戦争に取りつかれてしまった有能で型破りな悲劇のヒーロー”を主人公に設定している浅はかさが不快だったからだ。この映画を要約してしまえば、「この超有能主人公かっこいいでしょ」「こんな格好いい主人公が酷い目にあっちゃう戦争は悲惨だよね」ただこれだけだ。そしてそれを描くために、戦争の現実をヒーローが活躍できるファンタジー世界にすり替えてしまっている。これはまさに意識高い系のように、対象の見栄えのいい部分だけを取り出して”わかったふり”をするための映画なのだと思う。

 

 『ハートロッカー』を見るくらいなら、邦題がパチモンくさい『ハートアタッカー』を見た方が絶対いい。こちらはイラク戦争時の米軍による民間人虐殺事件を扱った映画で、若い中隊指揮官が戦場の緊張と軍隊組織内でのプレッシャーによって正常な判断力を失い、民間人をテロリストと誤認、虐殺に至る過程を丁寧に描いている。ハートロッカーとは違い、こちらはファンタジーもヒーローもなく、真正面から戦争の悲惨を描いている。