”縁”という概念

 緑じゃなくて縁。

ついさっき、おそらく初めて実感を持って縁というものを理解できた気がするので、メモる。

宗教的体験とかじゃないよ。

 

 帰宅途中、電車の椅子に腰かけていたんだけど、膝の上にのせていたカバンの上を、脚を広げれば3センチはありそうな中型のクモが歩いていることに気づいた。

 ぽってりとしたお腹で、のそのそと這いまわっていたので、やさしく払い落としたら、奴さん椅子の上をとぼとぼと歩いて行く。

 「このまま放っておいたら故意かどうかは別として殺されちまうだろうな」と思ったので、駅で降りるときに捕まえて外に放り出してやろうかと考えたんだけど、結局遠くに歩いて行ってしまったので、放っておいて電車を降りた。

 

 起こったこととしては、ほんとにこれだけなんだけど、電車を降りた瞬間に3つほどのことを一時に思いついた。

一つは、自分はなぜあのクモを助けようとしたのか?

二つは、自分はなぜあのクモを助けなかったのか?

三つは、なぜ自分はクモを助けることについて”なぜ”などと考えているのか?

 

 一つめと二つめの疑問の答えは単純で、それぞれ「なんとなく哀れだったから」と「遠くに行きすぎてわざわざひろいに行くと不審者っぽくなって嫌」なんだけれども、三つめの疑問が出てきたのは最近動物研究における擬人化の是非に関する本を読んだからだと思う。

 その本の内容には立ち入らないけど、ふと、そこで取り上げられていた、自然の摂理v.s.人間の感情という図式が三つめの疑問の背後にあるのではないかと思った。つまりこの図式によって、一つめの疑問は感情によってクモを助けることの是非に、二つめの疑問は助けなかったことの是非に関連することになる。助けることが感情によるならば、助けないことは道義的に間違ったことをしたことになり、摂理によるならば正しいことをしたということになる。

 つまり、僕はあのクモが死ぬことになる選択をしたことをうしろめたく思っていたために、あのクモのことを考えだしたのだ。

 

 でも、下に隔離したようなことが頭に閃いたとたん、そもそもこの「助けることの是非」という疑問自体が的外れであることが分かった。つまり、僕が本当に知りたかったのは、「僕はクモを助けるべきだったか」ではなく、「なぜ”あのクモ”は僕の選択によって死ぬことになったのか」だった。(もう起こってしまったことは「べき」ではなく「なぜ」でとらえられる圏域に移ってしまっているし、僕が選択したのは”あのクモ”の生死だったから。)

 もちろんその疑問に対する答えは全く「偶然」で、どこかで僕にくっついてきて、電車の中で見つかって、明るいところに落ちたがために暗い隅を探して遠くに迷い出て、他に乗客がそこそこいたために拾いにいけなかった、というただそれだけだった。くっついたのが僕でなければ、見つかってすぐに踏み殺されていたかもしれないし、電車の中で見つけたのでなければ、その辺の草むらに放してやっていただろう。乗客が少なければ改札外まで連れて行っただろうし、僕の手近に暗いところがあれば、僕が拾うまでそこに隠れていられただろう。さらに言えば、僕が人目を気にする人間でなければ奴を拾っただろうし、虫嫌いならすぐに殺していただろう。

 

 でもそうはならなかった。

 

 この説明には、何ら必然性がなく、物語性しかない。しかし、その物語性によって、僕とあのクモは、数々の偶然によって関係づけられた、個別具体の関係を持つに至った。この物語性を持った偶然の連鎖を僕は”縁”として実感した、のだと思う。

 

 つまるところ、原理・法則・当為の問題として、イデアの影として出来事をとらえるやり方と、具体的な事象の連続性とその因果によって出来事をとらえるやり方があり、僕は基本的に前者を用いていたが、今日は偶然にも(それこそ縁によって)前者から後者へと出来事のとらえ方が急激にスイッチしたために、いつもは感じない”縁”というやつを実感できた、ということです。

 人間よりクモのほうが感情移入しやすいからね。しょうがないね。

 

 以上終わり。ポイッ。

 

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ 隔離 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 電車を降りた瞬間に、まず、「ここでクモが死ぬことは自然の摂理だから、「なんとなく哀れ」なんていう感情によってクモを救うのは人間の傲慢にすぎない云々」という聞き飽きたロジックが頭に浮かび、次に、「電車なんていう人工的な環境に入り込んだクモに”自然の摂理”なんてものを適用するのはナンセンスだ」というこれまた食傷ものの反論が浮かんだ。

 で、「人間の生活圏だって生態系の一部をなしてるじゃないか。里山研究を忘れたか?それに同じクモでもハエトリグモを見てみろ」、「俺はさっきまで山奥にいたんだから、そもそもこいつは、人間の生活圏以外から連れてきてしまった可能性が高い。それに、人間の関係する生態圏がそのほかの生態圏に対して破壊的な影響を及ぼすのが問題なんだから、里山の例なんか参考にならん」とかなんとかそんな理屈が頭を駆け巡った。

 

 でも、次の瞬間に、「あのクモの生死を云々するのに”自然の摂理”なんて概念が必要なのか?」という疑問が生じた。”自然の摂理”は全く匿名的で、普遍的で、”あのクモ”にも”そのクモ”にも妥当する。しかしながら、いま僕が問題にしているのは、僕のカバンの上を這っていたあのクモのことだ。この二つの間には大きな間隙がある。

 自然の摂理が想定するのは仮想の集合体としてのクモだ。こいつらは個別性も時間性も持たないイデアルな存在で、法則によって自由意思なく動く。

 こいつらと人間との関係を考えるとき、人間は自然の摂理とは無関係に、自由意思によって”クモ”を殺す/助けるかを選択する主体として登場する(人間を生態系の一部として考える場合にも、結局は主体的選択によるクモとの関係の変化は人間の特権となっている)。

 しかも、「自然の摂理v.s.人間の感情」というときには、その選択は法則にかなった”よいもの”でなくてはならない、と想定されている。

 本当にそうか精査できるほどの元気は残っていないが、これが僕の一連の疑問の基盤になっている(気がする)。ここには法則と当為の不健全な関係がある。”自然の摂理”は”べき”論ではなく記述的な概念ではなかったか?

 だとすれば、”自然の摂理”は今の秩序を記述するだけで、それ自体で僕に行動指針や善悪判断をもたらすものではない。当為として用いられるばあい、そこには「現状維持が善い」という善悪判断が秘密裏に持ち込まれている。この混入物が、僕にクモのことを助けることの是非という判断基準の上に考えさせたのだろう。

 しかし、秩序の現状維持という観点は、僕のカバンの上を這っていたまさに”あのクモ”を考える上では夾雑物でしかない。